当觀音寺は、古来寺の伝えによれば、中国梁の時代〈580年頃〉に渡来した法輪獨守居士(ほうりんどくしゅこじ)が、この中舘(なかだて)の地に到り觀音菩薩(かんのんぼさつ)像を安置したのが始まりとされています。
当時この地で疫病(えきびょう)がはやっていましたが、獨守居士が祈願したところ中舘台地崖下より清らかな涌水(わきみず)が出(い)で、病を癒したと言われ、646年に、時の左大臣阿部倉梯(あべのくらはし)公の姫君の熱病を平癒した霊験をもって孝徳天皇(こうとくてんのう)より『延命』の称を賜ったと伝えられています。
1189年、源頼朝公の奥州征伐の際、中村常陸介(なかむらひたちのすけ)〈朝宗(ともむね)、宗村(むねむら)の両説あり〉は当山に武運を祈願すると、大願が成就(じょうじゅ)され、その勲功により奥州伊達郡(おうしゅうだてぐん)を拝領し伊達氏の祖となりました。
1336年、伊達家第7代当主 伊達行朝(だてゆきとも)公も武運を祈念して本堂、仁王門(におうもん)、経蔵(きょうぞう)、鐘楼(しょうろう)、五層塔を新たに造営し、比叡山(ひえいざん)より実相坊心海(じっそうぼうしんかい)を招請(しょうせい)し、中興開山(ちゅうこうかいざん)されました。
1364年、行朝公 十七回忌法要が営まれてより、伊達家の先祖の追福と子孫の繁栄を願い、往時は10月21日に法華三昧(ほっけざんまい)の法要を厳修(ごんしゅ)してきました。600年続けられたこの法会(ほうえ)は、現在11月に日を移し檀徒の供養も行われています。
江戸初期に、当山は二度の大火に見舞われ、一山の堂塔全てを焼失してしまいますが、1652年には当山第十八世厳海(げんかい)が、現在の觀音堂を再建しています。
伊達家、当地の領主等の觀音寺に対する尊崇の念は断えることなく、伊達綱村(だてつなむら)公は1697年、先祖三百五十回忌に当たり、仙台藩龍ヶ崎領〈常陸国河内群龍ヶ崎村〉より五十石を永代御寄進され、吉村(よしむら)公、重村(しげむら)公は、参勤交代の帰途の折、行朝公供養塔に参詣され、狩野探幽(かのうたんゆう)の掛軸、螺鈿(らでん)硯箱、香炉等を下賜(かし)されています。